万灯祭・三宅区の歴史について詳しい老人クラブ会長 長岡徹治氏に話を聞きました。
万灯祭の正確な起源はわかりませんが江戸時代中期よりの行事とされています。約270年の歴史があります。山頂にある愛宕大明神(あたごだいみょうじん)を祭り、五穀豊饒(ごこくほうじょう)を願う祭で、秋の稲刈りなどの実りの時期を迎える前の8月24日に行われています。かつて三宅区の万灯祭は、近隣でも有数の大がかりなものとして知られていました。昭和30年ごろには、人口の減少や少子化、万灯に使う麦の生産農家の減少などによりいつしか小規模なものとなり、ついに麦の生産農家ゼロとなってからは、万灯祭の行事は途絶えてしまいました。しかし、昭和61年、新たな「ふるさとづくり」と区の活性化をかねて、この伝統行事を復活させようという気運が高まり、その当時の区長を中心に区民の総意により途絶えてから30年後に万灯祭が復活しました。現在では、その炎の雄大さに遠方からも見物客が訪れるようになっています。復活後36年(令和2年現在)が経過しています。
8月24日の夜 7時30分 サイレンの音を合図に一斉に万灯山の万灯に点火をします。山の稜線のすそ野では、子どもたちが「ふり万灯」を振り回し、光の輪があちこちにできます。まさに火の饗宴の始まりです。その明かりを眼前にする広場(大与比神社前の「三宅ふれあい広場」)では、区民による夜店が出され、盆踊りの輪ができます。近年は、大谷校区協議会の若者グループによる、たこ焼き、クレープなども販売されにぎやかに盛り上げてくれています。さわやかな夜空を鮮やかに彩る万灯の明かりは、まさに夏の風物詩ともなっています。三宅の万灯祭は、区民総出の事業です。豊岡市六方田圃の麦刈り取り(6月中旬頃)に合わせて、約20アールの麦わら集めに出かけます。その麦を各家庭に持ち帰り乾燥させます。祭が近づくと隣保毎に持ちより、大人二人がかかえるほどの大きさの万灯を作ります。かっては、1戸に1基の万灯が作られていましたが、現在では6つの隣保と、第一学院高等学校 養父校の体験講座による万灯をあわせて24基作られています。なお、第一学院高等学校 養父校の体験講座は、平成21年より始まり現在まで継続しています。7月下旬の日曜日には、万灯を据え付ける場所の、延焼防止のための草刈り、参道の整備などの準備作業を行います。万灯づくりは、8月24日の直近の日曜日に各隣保毎に作ります。
◎ 万灯の大きさ
・ 高さ 1.0m~1.5m
・ 直径 約1m
◎ ふり万灯の大きさ
・ 長さ 0.8m~1.0m
・ 直径 約20㎝(太いところで)
万灯祭は、以前は子どもの行事でした。準備作業は小中学生で行い、ふり万灯(一人で2本ないし3本)を振りました。各戸から「お灯明銭」を集め山頂の愛宕大明神の祠にお灯明を上げました。今も続いています。
◎ 万灯うどん
昭和60年代の万灯復活時、地元産による小麦を原料としたうどんを打ち区民等広場参集者に振舞った時期もありました。
但馬国司文書の記録によると、推古天皇(607年)養父市三宅(旧関宮町三宅)には屯倉(みやけ)が置かれていました。この地域は、食糧の自給自足が可能な上に、他地方から流れ込む窮民を救済するに足る余力を持っていましたそうです。昔から農業中心の村だったということです。
三宅区の人口の変遷
・ 明治24年 世帯数85 人口448人
・ 昭和61年 世帯数107 人口434人
・ 平成19年 世帯数107 人口339人
・ 令和元年 世帯数 86 人口292人
・ 令和2年 世帯数 87 人口288人